『江副浩正』(7)


先週に引き続き第4章を読んでいます。

 

企業からの求人もかなり増え規模も拡大していましたが、それでも事業の先行きはまだまだ怪しいものでした。
江副は、就職シーズンだけ忙しい仕事なんて将来性がないと言われ、広告の仕事がしたいなら電通などの大手で勤めることを友達に勧められたのです。

たしかに、普通の人なら東大を出ていくらでも企業が欲しがってる人材として就職にも困らないだろうし、大手企業にいくのがベストな選択だと考えるでしょう。しかし、江副は大企業の一つの駒にはなりたくないという強い意思があったのです。今では大企業であるリクルートの最初の踏み出しは、もって3年なのではないかと自分たちでも思っていたというから驚きます。


その後江副の就職広告事業拡大に転機が訪れたのは、ついに株式会社大学広告としてスタートすることとなったときのことです。
そのときの江副にはこのままでは続いていかない、新しい事業を始めなければならないという焦燥感がありました。
しかし、なんとも驚くべきことに、企業の競争が激しくなった結果、こちら側から考えなくても企業側からの新しい事業の提案がありました。大商証券が千人規模の募集をかけるにあたり、大学新聞だけで、それだけの採用は不可能とよんだのです。そして独特の入社案内を学生の住所におくりたいといってきました。
江副は証券と銀行の違いを学生にわかりやすくかいて工夫を凝らした入社案内を作りました。

 

入社案内制作事業、そして学生の名簿事業と、新たな二つの事業を生み出すことができました。江副は、ここでさらにもう一つ新たな事業が出来れば事業は確実に見通しがつくと考えました。

そこで閃いたのが、『広告だけの本を作る』 ということです。それは、前例にないもので、他の社員にとって衝撃的なことだったと思います。さらに、江副はそれを売るわけではなく、無料で配り、得意先からの広告費ですべてをまかなうといいだしたのです。

江副氏がリクルート経営のモットーとして述べている『誰もしていないことをする主義』というのは、こういう事業の始まり方にあったのだと思います。


そして江副はさらに、当時の企業広告は自分の知らせたいことだけを載せたがっていたが、各社画一情報にして、学生目線に立った広告掲載にこだわりました。

これもリクルートの経営モットーで述べている『分からないことはお客様に聞く主義』にある、誰も手掛けてこなかったサービスを提供するためには、新しいお客様や潜在的なお客様が先生であるといっていました。お客様の意見とこちらの考えの間に本当の答えがあるというのが江副の考え方だったのです。江副のこのようなお客様側の目線を大切にした経営の仕方が、新しい事業を成功させた秘訣だと思いました。

『江副浩正』(6)

今週は第4章をよんでいます。

 

ついに、大学新聞広告社として企業の求人情報広告の営業生活が始まりました。
東大新聞だけの扱いだった事業は、企業からの熱い要望により全国の大学新聞に声をかけ、他の大学の広告掲載料金表の作成をしました。東大、旧帝大、次いで地方国公立の順につくっていき 全国国立大学全紙が出稿されました。

 

全国の大学にまで事業を広げたことで、東大生のアルバイトを沢山ふやしたそうです。


しかし日中は営業、夜は入稿原稿の作成で、つぎつぎと受注が増えているために、消化していくのが困難なほど忙しい日々を送っていたそうで、ついにアルバイトだけでは回らなくなり、女性社員を事務員として雇用しようと朝日新聞に広告を出しました。

 

 

女性の求人が少ない時代に、悪くない給与で求人をかけたものの、集まったのはなんと2人だけでした。ぼろい掘建小屋に踏み入れるのは大変勇気がないと出来ない行動に違いありません。そして、江副氏は極めて優秀な友野喜久子を採用しました。

 

 

そして、江副氏はこの女性を同じ賃金で雇ったことで将来的にとても注目されることになります。
江副氏は、(男女の能力や賃金に対して、)
『代表者だから事務員だから、そして女性だからといって差をつける意識は初めからなかった』と語っています。

 

リクルートが大きくなったとき世間の注目を集めることになったのがこの男女同一賃金だったのですが、実はリクルートになるもっともっと前の小さな個人経営の広告社第1号採用者から、この男女同一賃金という方針でやってきたのでした。江副氏はそんなことで特別視されるのが不思議だったそうですが、当時の固定観念に囚われずに自分の意志を通していた姿はかっこいいなと思いました。

『江副浩正』(5)

先週に引き続き、3章の東京大学新聞というところの後半を読んでいきます。

 

前回記した菅原くんとの明るい出会いの他に、彼にとって欠かせないもう一つの明るい出会いがありました。それは、大学2年生の夏のアルバイト委員会でのことです。

東京大学学生新聞会の月収1万円という求人がありました。 当時の入学金3000円、授業料が月500円、日給が良くて240円の時代ですから、月収1万円という数字がいかに破格の数字かがわかります。

このアルバイトの詳しい業務内容は、学生新聞会の広告取りの仕事でした。1万円というのは、歩合制で、広告をもし取ってこれたらの話だったが、可能性があるなら!と彼は挑戦することを決意しました。

学校の周りのカフェやレコード店で小さな突き出し広告をとっても月収1万円にならないと気づいた江副は、 『世の中の動きの中に広告をとるヒントが潜んでいる。新聞をもっと読め。それも下から読むんだ。』という先輩の助言に従い、その日から毎日下から新聞を読みふけりました。

そこに本当にひらめきのヒントがあったのです。新聞のスポーツ面のところで記事と広告が一体化してるのを見つけました。

来たる東大入試 、受験生は誰もが合格者の名前が載る大学受験号の東大新聞を買うものであり、合格者はもちろん、不合格者も悔しさを糧にするために買う人が多かったそうです。そこで、合格者名簿の記事と予備校広告の記事を一体化させるということにひらめきました。予備校回りをすると面白いほどに売れました。

他にも、試験問題を載せ、有名予備校講師が模範解答を解説する広告なども企画し、これも好評で飛ぶように売れたそうです。

そして、江副のおかげで東大新聞の経営は安定しました。歩合制の給料のおかげで、江副の収入は膨らみ月3万にもなっていたそうです。

 

『人間は誰しも成長しようとする性質を持つ』という c.ロジャーズの臨床心理学から影響を受けたものですが、江副はこの経験をきっかけに、自分のひらめいた行動から、自分自身の成長はもちろん、団体を成長させることにも成功し、大きく人生が変わったようです。

 

これらの明るい出会いが、のちの江副浩正の人格を作り出し、リクルートを創設する企業家になったのだと思いました。

『江副浩正』(4)

今週は第3章の東京大学新聞というところを読んでいます。長いので前半と後半に分けて書こうと思います。

 

江副氏は、見事周りの期待を裏切る形で東大に合格しました。彼は自分で寮費を稼ぐために、アルバイトの募集を覗きに行くのが日課だったそうです。仕事にあぶれれば授業に出るか、という学生にあるまじき本末転倒の暮らしでした。さらに周りと比べ親の収入が低かった彼は奨学金も貰えることになり、授業料と寮費をなんとか自分の力で稼いでいたというのに驚きました。

 

そしてこの東大で、彼の未来を明るくする出会いがあったそうです。初等科から高校まで学習院で、マミヤ光機の御曹司である菅原君との出会いです。

内気で大人しい性格の江副にとって、金持ち風を吹かせるわけでもなく貧民を哀れんだりしない、あっけらかんとして明るい性格の菅原との出会いは彼の人生観を大きく変えたでしょう。  

菅原君は高校時代の江副氏の周りにいたお坊ちゃん学生と明らかに違う存在でした。親の代から築かれた資産を守ろうと経営などについて詳しく学ぶ姿などは、江副から見て尊敬に値するものだったと思います。菅原君は江副氏にとって初めて心を開き、自由になれる環境を作ってくれた存在なのです。

本書にも『分け隔てなく人を見る菅原やその仲間に出会い、江副はその屈折した思いから解き放たれた』とあります。

 

今まで彼を支配してきた厳格な父によって禁欲的でならなければならないという不自由な考え方はここで打ち砕かれ、自由で明るい学生生活を送ろうという気持ちになったことと思います。彼の人生で欠かせない出会いだったのです。

『江副浩正』(3)

今週は第2章の『浩正少年』という部分を読んでいます。
江副浩正氏の出生から甲南学園で過ごす中学時代までが描かれています。


本書によると、浩正は、父がかなり厳格でいつも父に怯えつつも甘える母もいない寂しい日々を過ごし、そのせいで非常に心を閉ざした性格であったようです。
中学は学費も日本一高く、学力も高い甲南学園に入学します。しかし、そこでの江副浩正の存在を記憶する人はいないと言われるほど、影の薄い存在だったようです。

 

 

『3番目の母きくゑのお金で、甲南に通う浩正に贅沢いう余裕はなく遠慮のある身として金の無心もできない。6年間何不自由なく暮らす友人たちの姿をみて、金のないみじめさを、嫌という程味わった。』

 

こう言ったお金持ちばかりが通う暮らしが、浩正のなかでお金の大切さを駆り立て、将来必ずお金に困らない生活をしようという思いに繋がったのではないでしょうか。

『江副浩正』(2)

先週に引き続き『江副浩正』を読んでいきます。今週は第1章を読みました。

 

第1章は江副氏の生涯最後の日の様子がかかれています。江副氏は生涯最後の日まで、自分が目をつけた会社の株の取引を行っていました。

 

本文によると江副氏は
『「会社四季報」の数字を読み込み、だれも目をつけてないない事業の萌芽や、破綻にいち早く注目する。事業家江副浩正の直感で投機銘柄を割り出し、思い切り仕掛けるのだ。それが株の醍醐味。なのに、コンピュータに判断を任せるなど信じられない。』

と述べられていました。当時も主流はコンピュータを使った株取引でしたが、彼は自分の目で確かめること直感的なものを1番大切にしていたそうです。

 

会社四季報には三月の決算企業の中間決済情報と当期の業績計画が同時に記載されているものです。この二つの数字であまりにも乖離している企業には必ず何か裏があると江副氏は睨んでいたそうです。江副氏の大胆かつ潔い株取引の裏側を知れて、感動しました。

 

『江副浩正』(1)

こんにちは。ベンチャー企業についてちょっとだけ学んでいるしがない大学生の目線から本を読んで感じることを述べていきたいと思います。

 

今日から『江副浩正』(日経BP社)という本を読み進めていきます。

 

この本のタイトルにもなっている『江副浩正』という名前に聞き覚えがなくても、リクルートという企業の名前はみんなが知っていると思います。彼こそが、かの有名なリクルートを立ち上げた稀代の起業家です。

 

さて、その『江副浩正』という本の序章にこういった文章が載っていたので紹介します。

 

「個人の力によってサービスを生み出し、それを磨き続ける。これこそが醸成されてきたリクルートの企業文化です。」

 

江副浩正が大切にしてきた経営理念に『個の尊重』というものがあります。この理念が今のリクルートにも深く根付いているといいます。個人が輝ける企業であるということが、今のリクルートの明るい社風、そして企業成長にも深く関係していると思います。そのような江副浩正の理念をきちんと受け継いでいるからこそ、リクルートが成長しているのです。

 

私はこの本通して江副浩正、そしてリクルートについてもっと深く知りたいと思います。

江副浩正の生き方には現代の若者を鼓舞し、思考と行動に駆り立てる何かがきっとあるはずです。